ニッポンチャチャチャ

あけましておめでとうございます。

 


天正月。今は「NIPPON CHA! CHA! CHA!」の稽古真っ最中の年末年始休暇中。年末最後の通し稽古を観ては台本をもう一度読んでみては窓の外の空を眺めては。

 

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「NIPPON CHA! CHA! CHA!」は演劇版とダンス版の二本立て。演劇版の主人公には高校生ランナーヨシダカズオ役の前田旺志郎さん。集中力と柔軟力と理解力、どんなことにも扉を開いていくバイタリティとユーモアと知性があり、裸足で踊ったことなどない足の裏の皮も筋肉も含めてどんどん成長して変わっていく日々。19歳という儚い毎日。私が19歳の頃は昭和バブルの全盛期で、腰まで長いワンレングスヘアとボディコンで遊び呆けながら、冷めた目で社会を見ていました。KAAT界隈、中華街、関内、伊勢佐木町あたりにもたくさんのバカな濃いバブルな思い出があるなあ。オオヒラ社長役の平川和宏さんは「NIPPON CHA! CHA! CHA!」の1988年初演に出演し、高校生ランナーカズオ役を演じました。そして2020年の今回は社長役。カズオのお父さん役のような存在でもあり稽古場では全員のお父さん役でもあり、如月小春さんの演劇には必ずいなくてはならない俳優だった平川さん。私はその頃の如月さんも平川さんも知らないけれど、平川さんの台詞を通して如月さんとの時間や理解を感じます。「その頃は全然わかってなかった」なんて言うけれど、身体に入っている経験といったらぎっしり。その平川さん、なんとなんと私の働いていた山一證券のCMに出ていた方。凄いご縁!そんな平川さん社長の娘ハナコ役には山根海音さん。2018年の「春の祭典」札幌公演、ダンス、音楽劇、芝居にと、近年私と共に新しいハードルを越えてくれている魅惑のダンサー。ハナコといえば如月小春さんのどの作品にも一環して出てくる主人公。とても重要な役割です。平川さんと海音さんの親娘の台詞のやりとりから如月さんの育った日々やご家族のことを想像します。ハナコともう一人この作品で重要な昭和の女性、カズオの姉役には現在大学生の松本涼花さん。昭和と圧倒的に距離があり若い俳優の力は今回絶対に必要なエネルギー。透き通った声と冷静さが日々のびのび変化していきます。若いエネルギーといえばウエイトレス役には林麻子さん、赤松怜音さん、ランナーに池田紫陽さん、宮部大駿さん。街の人と女学生役には大條瑞希さん、亀井梨花さん、栗下莉佳さん、鈴木紫乃さん、鈴木里衣菜さん、竹内沙織さん、長谷川陽花さん、林麻子さん、村田小万里さん、三浦加利奈さん。特に現役高校生の新鮮なエネルギーの素敵さ。未熟と成長をたくさんぶつけてくれる鮮やかさ。演劇に関わっている若者は多くとも、劇場で出会える若者は多くはありません。劇場には若いエネルギーは必須。常日頃、全国の学校や施設でダンスを通したワークショップではたくさんの若者に出会っているけれど、もっともっと出会いたい、届けたいと思います。演劇もダンスも音楽も若いうちにいろんな体験があったらいい、未来を作るために創造性がどれだけ大事なことか、いつもいつも思うこと。

 


そしてこの物語を支えている靴職人役イケダくんには味わいと優しさ溢れる村田哲至さん。サトウくんには冗談も真面目も底から引っ張っていってくれる気持ちのいい気の持ち主の菅沼岳さん。タナカくんにはカンパニーダンサーとしても演出家としても邁進する山口将太朗さん。新聞記者ミキ役には文学座の美青年、軽やかな声の持ち主の鈴木陽丈さん。ミキの恋敵であり文学青年でありマラソンのコーチ役フクダには芝居初挑戦の喜びを力に変換していくカンパニーメンバー吉﨑裕哉さん。池田→佐藤→田中→三木→福田、という昭和の総理大臣リレーを背景にこの役達を見てみてるとひねりが直球のユーモア満載でまた面白く。音楽のスズキ先生役にはカンパニーメンバーの長谷川暢。ダンスに歌に芝居にとマルチな振る舞いをたくさんみせてくれます。そして私は喫茶店のママ役であるキシさんです。戦後吉田茂から初演時の竹下登までの日本史を実感している人には面白く仕掛けのある本です。始まったそしてダンス版出演のキレキレダンサー達、飯森沙百合、黒田勇、伊藤壮太郎は、演劇版にも出演するところがあります。私はキシ役。昭和を過ごした大人達が懐かしく笑えるなごやかだけどスパイスたっぷりの物語です。

 


私たち出演者を支えるスタッフ達のことも一人一人思い感謝をしながらスタッフとのやり取りアレコレは全く絶えない正月です。

 


さて、私の昭和時代のことを思い出そうとすると、まるで他人の人生のようです。思い出しても思い出しても作り話のような話ばかり。どれも夢だったんじゃないかと思ったりもします。バブルの時の出来事は特に。「NIPPON CHA! CHA! CHA!」の中の昭和はデタラメと真実のシマシマ模様。「はじめまして」という気持ちで昭和と出会っています。

 


今年も劇場でお会いできるのを楽しみにしています!

https://www.kaat.jp/d/chachacha

 

#ニッポンチャチャチャ

 

クランタン州シャーマンを巡る旅その1

呪術や霊魂との交信が生活の中にどっぷりと根付いている。マレーシアのタイ国境近くクランタン州。歌と芝居と舞踊で構成される「マッキヨン」や人形影絵劇の「ワヤンクリ」もエンターテイメントとしてだけでなくヒーリング効果があるが、「マイン・プトウリ」は病人がいて初めて行われる病を祓う儀式として完全にヒーリングのためだけに存在するもの。4、5人のミュージシャン、一人のシャーマン、そして、シャーマンの助手として患者をガイドしたりする人、患者、観客取り巻き。この儀式は外で行われ、その音は大きく拡声器で鳴らす。近所の人がたくさん観に来る。いわゆる野次馬ではあるが、この野次馬というか観客、取り巻きが必須だという。他者に観られることがシャーマンには必要だという。自分のアンギンを解放するために。

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マイン・プトウリの飾り付け


アンギンというのは内的な風エネルギーという意味で使われる。舞踊やシャーマンの動きからアンギンは必要なことなのだが、いわゆる舞踊業界で使われるアンギンはもう少し観客のために用いられ、体から他者方向へ広がった技術的な力を指す。地元クランタンで指すアンギンはもっと内的な風のこと。風といえば風邪をひくというのを「マスクアンギン」という(風が入るという意味)

儀式の前にまず飾りを作る。一枚の四角い布を天井から水平に吊るす。対角線に紐を張って、手作りのカラフルな揚げ菓子やバナナやお花を吊るす。飾りが終わったら全員でご飯を食べる。3種類以上の野菜(そこらに生えてる葉っぱ)と3種類以上のしょっぱい魚の揚げ物と米を地べたに敷いたマットに置いて、クランタンの調味料ブドウをつけて食べる。その調味料は日本の塩辛のようで魚出汁のペイスト。食事が終わりオープニングのドラムがなる。激しい太鼓のリズム。楽器はスルナイ。(蛇使いが蛇を壺から出すときの楽器)大地が響きシャーマンは蓮華座。エキサイティングな音楽と歌のような叫びのような言葉。大地から湧き上がるエネルギーが宙に舞い、シャーマンの体に別の魂が入る余地ができたとき、「準備ができた!」の合図でポップコーンを撒く。そして着替える。白いTシャツはそのままでズボンからサロンに。一枚の布を胸に巻く。この布はときに患者の体を叩いたり払ったりするのに使う。シャーマンの体の意識が胸にある。布が巻かれているところにエネルギーのポイントがある。頭がもげるくらいに首を回す動き。目を瞑り患者の体にある悪い魂を探す。その魂をどうやったら患者から出すことができるか、助手と漫才の掛合いのようにダイアログで話し始める。これだけで2、3時間がかかる。ミュージシャン達は終始タバコを吸いながらトランスの演奏。一人が一つの楽器しか担当してはいけない。繰り返されるリズムとともに魂を探す、一晩では達成する事ができないため、この儀式は2日、3日、4日と続く。しかしもちろん大勢のギャラが発生するお金のかかる儀式なので誰もがそう続けてできることでもない。また、ムスリム色の強いクランタン州ではイスラム教以前の文化を排除する政府からの働きが強く、特にスピリチュアルなことについては。州政府により禁じられているのでクランタン州でこの儀式を実行することはとても難しい。私が行った時期は前任の王様が亡くなったばかりだったので、特に自粛ムードが高かった。とはいえ政府関係者もこのスピリチュアルな儀礼で治療しにくる人が多いのも事実。社会では排除されても暮らしの中に根付いていれば、それを実行しようという個人の力がきちんと働くのがこの国の面白いところ。社会のルールと宗教のルール、そしてそれとは別の共同体の文化があって、田舎に行けば行くほど、共同体の文化が主流になる。人々はどうやってこの伝統文化を残していっているか、残せないか、ということも垣間見た。
 

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自粛のため室内で行われたマイン・プトウリ




「マイン・プトウリ」以外にも患者とシャーマンが一対一で病を治す儀式がある。今回滞在中3人のシャーマンと5つの儀式を体験した。ここでいう「病」とは癌や怪我ではない。「体が重い」「悲しみ」「喪失感」「鬱」「やる気がない」そして「呪いをかけられた」など、主に感覚的な感情的な病を表す。目の前で全く治らない場合と、見事に元気になってしまう場合があった。患者は自ら来る人もいるけれど、ほとんどが家族または地域の人が連れてくる。ここでいう感情の病は自分の力で治すことのできない病だからだ。他者の治療、他者の体、それは個のものではなく共同体のもので神や精霊が司る。

私がリサーチに行くことは事前に患者に伝えてもらっている。一箇所だけ「他人がいるのは嫌だ」といって患者にドタキャンされたので、私が代わりに診てもらうことにした。面白半分に、
「名前は?」と聞かれて「Un Yamada」と伝えた。(本名は違う)シャーマンは足を投げて座る私の背中側に位置した。名前以外何も質問をしなかった。無言で私の背中を撫でて、時々ゲップをしながら口を開いた。私の体調、最近痛い場所、持病があるはずだということを話し始めた。そして私の守護霊、そのルーツである私の母の年齢や趣味、行動について、母の父である祖父について、それよりさらに過去の世代について話し始めた。先祖はどんな仕事をしていたか。どんな人物だったか。大きな頭飾りをつけて儀礼のような踊りをしていたともいっていた。私の知っている情報もあれば知らない情報もあった。私は母の田舎が宮城県仙台市の農家であることしか知らない。その農家の田舎は私にとって故郷のような場所であり、子供の頃から大好きだったけれど、山の麓の農家、ということ以外何も知らなかった。調べると祖父は山の仕事をしていたし民謡を村の人に伝えていたし、その土地、仙台市泉区福岡は鹿踊り発祥の地であったのだ。マレーシアで自分の先祖のことを教えてもらうことになるとは。

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貴方の先祖代々大勢の魂に会えて嬉しいと語るシャーマン

帰り際シャーマンの祈祷が入った水をもらった。飲料用と体を清める用のたくさんの水。ペットボトルだけでなくビニールに入れた大量の水もあったのだだが、空港の荷物検査の人は「あ、シャーマンの水ね」といってビショビショの水袋を暗黙の了解で通してくれた。

世界各地で見られる「観光用の民俗芸能」というものと「本物」の違いについて。その溝は埋めることができなくて、どちらも別々に継承されていくだろう。本質をどこかに残すことはできる。しかしその本質も生活の中に根付いた文化つまり長い時間の中で蓄積される血脈の技芸ではない、魂を抜かれてしまった形を体に入れただけで踊っている民俗芸能を見ると巨大な怒りが込み上げてくると研究者はいう。
 
クアラルンプールでは二人の研究者に会った。伝統と古典の違い、伝統をどのように再現できるのかという場の作り方について、などについて。マレーシアの伝統芸能ザッピンを復活させたドクター・アニスは私に言った。「シャーマンもあなたも、アンギンの中で魂と交流するならば、あの世とこの世の間に立つこと。そして体を酷使して壊れるほど身を投げて、ぎりぎりのところに立ち、そして無事に生還して帰ってこなければならない」そして、すべての技芸は観客とパフォーマーのエコシステムによって成り立っているので、それが作れない場所では「本物」は作れない。と。エコシステムについてはまた次のブログで。

忘備録のメモ、つづく。



ブダペスト Sziget festival

「ワン◆ピース」2004年から世界各地で上演し続け今年はハンガリーブダペストのSziget スィゲットフェスティバルへ。呼ばれた最大の理由は、初演から使ってる使用曲の一つがハンガリーのフォーク音楽だから。

 

欧州最大の音楽フェスで昼から翌朝まで爆音が響きます。敷地内には沢山のステージ。何万人収容の巨大ステージから小さな人形劇まで。世界中の人々が集まっていて何百ものテント。テントはフランス、イタリア、ドイツ、イギリスなど、まるで国境のように国別でエリアが分かれていて、それ以外は自由エリア。ハンガリー国内の観客より外国からくる観客が多い。外国人だらけなので「ワン◆ピース」でハンガリーのフォーク音楽を使ってる、ということには誰も気づかなかったかもしれません。


サーカスやダンスなどそこら中で様々な出来事がひっきりなしに続く。屋台も世界中のローカルフード。広大な島全体が信じられない人混みと土埃の中、セキュリティは厳重で、アーティストは完全に守られている。部外者が紛れる事はほぼ出来ない管理には驚いた。

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夏フェスのノリで観る人、真剣に観る人、多様な観客でさぞかし踊りにくいだろう、と思ったけれど、五人の出演ダンサー達は美しく楽しんで踊った。この作品は肉体と道具を酷使するので、ダンサーには作業ストレスが多く、肉体も精神もギリギリ。しかも今年のヨーロッパの暑さは尋常ではなく、リハーサルは毎日熱中症で死にそうに。毎夜温泉に繰り出して復活していました。2004年に若い二十代のカンパニーダンサーのために作ったこのレパートリー。完全に抽象化してるが、日本社会に対しても世界にも皮肉を散りばめた作品で、15年前作った時と今と、そのメッセージは一つも変わらず発信できる社会に溜息が出ていく場所もなく。

 

巨大フェスのクルー達は皆巨大でものすごい重たい大道具を軽々と運んでくれました。

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フェスが終わるとブダペストには秋がやって来た。昨日までビキニの人も今日は革ジャン。f:id:yaun:20190815165741j:image
 

 

プレリュード

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今月はプレリュード月間。まずは学園坂スタジオで24のプレリュードのリハーサル。港大尋さんとはつい先日ゴールデンウィークに「ストレンジシード静岡」でセッションを行ったばかり。その時はドラム演奏だった港さん、セネガルの大統領で詩人でもあったレオポール・セダール・サンゴール氏の詩「仮面に捧げる祈り」を掛け合いにした短いパフォーマンス。静岡市役所前。屋根のある場所であったとはいえ、靴を履いていたとはいえ、野外は野外。たくさんの雑音や雑景色が飛び込む中で、関節にこたえる短距離走のような時間。私の心肺機能がもっと丈夫だったらもっともっと踊りたかった。衣装はwrittenafterwardsのコレクションから。山縣さんのデザインは風景をデザインしていく。爽やかな風を含んでくれる服の力。たくさんの投げ銭もいただいて。たくさんのものに支えられた。

 

港さんが2016年にリリースした24のプレリュードから13曲を選曲。ポリリズム。耳触りが良いけど良く聴くとトリッキーだったり、祈りのようだったり。楽譜をみながら実際の演奏や踊りでは可視化聴覚化していないところ、見えない部分をシェアしていくのはストリートでのライヴとは違った喜びがある。さらにクラシックからジャズからアフリカンミュージックなどなど様々な音楽の雑話を混ぜての稽古時間。同い年だけにその時代時代で共感したことも近いからなのか、話は尽きない。今来日中のローザスの音源であるコルトレーンの話なども。昔は音楽と出会うことは今よりも面倒で大変だったはずなのに、若い頃雪崩のように音楽と出会った。近所のレコード屋もレンタル屋も一掃するようなくらいの勢いで「こんな小さな国の小さな町の小さな店の中で知らない音楽があるのはまずい」と危機感を持って片っ端から音楽を聴いた。あの行動と衝動は何だったのか分からないが、あの頃の蓄積が私の頭にぎっしりある。港さんいわく縦横無尽に音楽の話ができるのは人類学みたいなところへの興味に結びついているらしいけど。5月18日(土)15時〜学園坂スタジオで、残席わずかです。


カンパニー新作の「プレリュード」。ここから一ヶ月くらいかけて一つ一つの動きを徹底的に練習したいし、音楽と動きの接点も突き詰めたいし、ダンサー一人一人とやりとりを深めたいところですが、本番日はまもなくに迫ります。この作品は今年いっぱいかけて、松本、仙台、岩手、へとツアーを予定。ダンサーと共に成長をしていきたい作品ですが、まずは初演。初演には初演の良さがありありがたさがあります。ワーグナーのオペラのプレリュードをはじめ、ドビュッシーの「牧神の午後の前奏曲」などよく知られた名曲と言われるプレリュード(前奏曲)をいくつか使用します。その中で多くを占めるのはロシアのピアニスト兼作曲家によるピアノ曲ラフマニノフスクリャービンカプースチン、レーラアウエルバッハ、ヴィシネグラツキー、独特のきらめき、響きが際立っていることで、日本人の踊り手との相性を作ります。私達ダンサーが頑張って光らなくても光ること、柔らかな現れ方ができると信じて。5月24日(金)〜26(日) 世田谷パブリックシアターにて。

https://setagaya-pt.jp/performances/prelude201905.html

 

それにしても何て爽やかな季節なのでしょう。私の体は紫外線も日光も受け付けない。ドラキュラとしてはこの昼間の明るさは明る過ぎて活動できない明るさです。

終活

33年の友情。その中の壮絶な三年半のMとの日々が終わった。何者かが息を引き取りにやってきたのを生まれて初めてみて、その後、何呼吸かした後に、Mの呼吸は繰り返されなくなった。最期の最期まで、手をとり、ダンスを踊るように一緒のリズムで呼吸をした。

 

「人生でやり残してることない?やりたいこと、行きたいところとか?」余命宣告をされ、淡々といつも通り会社に通っていたMに聞いた。「残りの人生何が大事か考えたの。それは世界一周することとか、のんびり休暇を取ることとか、そういう特別なことじゃない。このまま日常が壊れないで、できるだけこのまま普通に続くこと、その中に私が当たり前にいること、それが私の人生で最高なこと。だからお願いだから私の病気のことは絶対に言わないで。この病気のことを知ったらみんな悲しむでしょ。困るでしょ。なんて言っていいか、私とどう付き合っていいかわからないでしょ。困らせたくない。だから周りはこのまま一切知らないのがベスト。それから、私だって周りの人に同情されて、気遣いされて、特別扱いされる関係になっちゃうより、今までどおりの関係で、腹が立ったり、文句言ったり言われたり喧嘩したりして、ストレスのある日常がいい。あと、もし会社やめちゃったら、病気とだけ向き合うことになるじゃない。それは辛い。病気とだけ向き合いってたら気が滅入っちゃうわ。それより病気どころじゃないこの大変な忙しい生活が幸せ。会社に行って疲れて、ストレスばっかりで、悔しいとか、うまくいかないとか、ごちゃごちゃ面倒くさい日常が'特別な何か'よりも一番素晴らしい!」

 

私と家族だけが彼女の秘密を知り、私は彼女の壮絶な生活や気持ちに振り回されることに同意し、とことん振り回してほしいと願った。仕事も遊びも全力疾走。寿命が縮んでいく日々をバレずに全うする、完全犯罪みたいな終活大作戦を並走する人が一人くらいいてもいいんじゃないか、そんな友情の日々を全うしようよ、と私も彼女も子供みたいに思った。「ね、だからしょうちゃん、わがままきいて!最後にたくさん思い出を作ろうね!」転校していく少女のような顔をして私によく言った。

 

とは言っても彼女を支えるなんてとんでも無理なことで、完全に潰されてしまうほどの壮絶な重さ惨さがあった。あまりにもの重さに私の行動も言動も空回りし、時に彼女にとってありがた迷惑だったこともあるだろう。自分の事など全く手につかない日ばかりだった。生活よりも彼女との日々を優先した。踊りをどっかに置き去りにした日も、手につかないことも。大親友の余命に寄り添うことは私にとって大仕事で意味がわからないけど意味があった。一挙手一投足、一言一言に悩み、何も言えないから、ひとまず適当に浅いことを言ったりした。一時だって心配が頭から抜けたことはなかったからまるで何も気にしてないように見せかけたりした。三年半ずっとただ生きてることやご飯を食べて歩けることに感謝していた。Mのために私が風邪をひいてはいけないと思った。「お願いがあるんだけど」とMが甘えると願いをききいれた。Mは甘えたくて甘えたのだろうか。今思えば、Mは甘えたかったのではなくて、私に気を使って甘えたのかもしれない。甘えることが大嫌いなMだったから。甘えれば私がホッとすると思ったかもしれない。いろんな小さな可愛らしいわがままを言ってくれた。馬鹿な話も命の話も人生の話も仕事の話もいろいろな話をしながら、よく悩み、よく泣いた。彼女が泣くと私も泣いた。そうして一緒にデトックスして、少しでもお互いの気が紛れるのは最高だった。

 

闘病してる人とそれを支える方にはどちらにも我慢があり、どちらにも共有できない迷いも悩みもあり。でも寄り添うように一歩一歩、Mが歩けなくなるまで、そして歩けなくなっても、立てなくなっても、寝返りが打てなくなっても、喋れなくなっても、息をして、息をしなくなるその時まで、そして息をしなくなった今もなお、私はMと一緒にいる。電気がパチパチ点いたり消えたりするし、物が割れたり壊れたりする。頭が痛くて耳元でずっと音がしている。オカルトではなくて何かそばにいるのを感じるし、時にまるでMそのもののような気分になる。ドライアイの目薬をささなくていいくらい目が濡れている。泣きじゃくって寝て、目が覚めて泣きじゃくる。まるで赤ちゃん。泣いて泣いて赤ちゃんになってここから新しい人生が始まればいいのに。

 

ある日「それでも死ぬ前にやりたいことってないの?」と聞くと「そうね」とMは少し考えてしばらく黙って、そして「踊りたい、、かな」と言った。「え!?歌いたい!じゃなくて?踊りたい?体動かすの嫌いじゃん!」と言ったら「そうね、でも私、踊りたい!」と言った。私は「じゃ、今度一緒に踊ろうよ」なんて喜んだ。今思えばMは踊りたかったわけじゃない。私が喜ぶと思ってそう言ったのだ。でも本気で絶対踊りたいに違いない!と思いこんだ。そして結局今はどちらでもいい。本当に踊りたくて「踊りたい」と言ったとしても、私を喜ばせようと思って「踊りたい」と言ったとしても、私がその言葉を聞いて天に昇るほど嬉しかったわけで、とてつもなく喜んだわけで、だから、それは幸せな出来事。最期は手を取り合って息を合わせて私たちは踊っているような時間だった。結果はどうであれその時間は大大大満足だった。その大大大満足の、何倍も何十倍も何百倍も今悲しい。そして悔しい。余命宣告されたって覚悟はできなかった。できなかったというより、覚悟という腹の場所に導かれなかった。Mも私も。なぜか。それは、呼吸は無意識に運ばれてくるから。波のように次の呼吸、次の呼吸がやってくるから。その呼吸がやってくる事は海を見るみたいな希望の予兆だった。定めることよりゆりかごのようにスウィングする方が気持ちよかった。若くして死を目の前にしてる人に哲学は役に立たず、寄り添うという事以外正解はない。

 

友情、愛、信頼、迷い、嘘、本音、たくさんの気持ちと理屈と諦めと辛抱の角を曲がって曲がって迷って三年半のながいみちのりを歩いた。転ばないようにしながら、転ぶより痛い目にたくさんあった。私はうまくいかないことばかりだった。Mの治療は尽くされた。限界にきて弱っていった。それからも逞しかった。どんな姿になっても清らかだった。何が今一番大切か、明晰だった。独りで、ストイックで、底抜けに心優しい、それは魅力で、凶器だった。喪失感と後悔ばかり。それら全部を含めたこの三年半は私の人生の最大級の絶望と宝箱。

 

人間の体に起こるあれほど壮絶なガンがあるなんて知らなかった。私が誰かに説明しても、絶対に信じてもらえないほどの、それほど信じられない状態の、恐ろしいタイプ。体のことを知ってるつもりでいたけど、何もわかっていなかった。生と死の境目のことも。生そのものも、死そのものも、境目というものも、わかっていなかった。それらは全部まるで差がない「渦中」だった。私はそれらの区別を感じることも、定義することも、できない。その中にどっぷりいる時、どんなに辛くても迷っても馬鹿げていても、死んでいても生きていても、時が進んでいること、そのことが美味しい果実、とわかるだけ。それだけ。ただそれだけの場所で精一杯がある、ということ。

 

葬儀では想像を超えるとてつもなく大勢の人に会った。大学時代の親友、会社の同僚、部下、上司、社長、驚くほどのたくさんの人に会って、Mがどれほど素晴らしく優秀な人だったか、愛されていたか知った。Mを語る言葉は様々だが、私の知っているM以上の格好いい姿がそこにあった。家族の前のMと会社の人が語るMと私と一緒にいたMは同じ人だが同じMなのだろうか。楽しい思い出の中のM、闘病生活でのM、骨になったM、すべて同じMなのだろうか。私の人生の登場人物で一番目に出てくる主役級の大親友M、長年、そして最後の一呼吸まで一緒にいたのに全然繋がらない。生きていた時も、死んでしまってからも、教えられることばかり。答えのない問いも生まれるばかり。それはあなたが一番教えてほしかったこと、大声で問いたかったことかもしれない。

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私達の最後の旅行の最後の日。ハワイで一緒に見た完璧な夕陽。

覚える言葉失う言葉

立春の匂い。太陽の時間が長くなった。まつもと演劇工場の受講生と「戯曲を覚える」という脳トレのようなことを一緒にやった。誰かが覚えたセリフと自分の覚えたセリフは全く同じページなのに、その誰かがそのセリフを話すと、まるで自分で覚えたセリフとは違うから驚きだ。全然違う内容のセリフに聞こえるのだ。どうやってセリフをインプットしたか、どうやってアウトプットしてるか、で違うのか、それとももっと違う理由で違うのか。このワークの中で「言葉を思い出すことのできなくなった」大親友のことを思い出していた。

彼女はモルヒネ投与により、ものすごい勢いで毎日あれよあれよといううちに言葉を話すことができなくなった。はじまりは二ヶ月前の事だった。頭の中で言葉を思い出すことができなくなり始めた時にはとても苦しそうだった。悔しそうに、もどかしそうに、眉間にしわをよせていた。そしてあっという間に言葉を思い出すこと、話すことができなくなっていっただけでなく、読むことも、書くこともできなくなった。話していることを理解することはできるが頭の中で言葉を作ることと文字を失った。毎日少しずつというよりは消えるように、あっという間に、滑り台を降りるように、言葉を失っていった。どんどん顔が変わって、今は言葉を思い出そうとすることもなくなった。失ったものを思い出す、という機能も失った。彼女はもう会話をすることができないけれど、自分の身に何が起こっているか、その全てを頭で理解している。モルヒネでぼーっとしてるのか、呆然とぼーっとしているのかわからない。

「いきのね」の稽古時間以外病院で会話のない時間を過ごしながら、なぜか私は心が洗われていた。彼女から聞こえる声は痛みによる絶叫だけの日もあった。稽古場は私がどこよりも大好きな場所だが、今回の「いきのね」はしんどかった。病院はどこよりも嫌いな場所だが彼女のそばにいると気持ちが安らいだ。無言。本当にそばにいるだけ。見つめあって微笑むだけだが、肉体、死、生、がしっかりと手をつなぎ、目の前に横たわっている聖なる時間。

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「いきのね」にはイスラエル大親友ニブにリハーサルダイレクターに来てもらった。2年以上前、カンパニー「ワン◆ピース」のリハーサルに来てくれた。その時45分ほどカンパニーメンバー皆と一緒にアップをしただけで、全員の課題を指摘してくれた。「いきのね」の再演には絶対にきてもらおうと決めた。昨年は「いきのね」に先駆け、カンパニーでどのようなボディワークやエクササイズをしたらよいだろうか、というワークをオーストラリアで一緒に考えた。「いきのね」ではニブ初日のリハ後即電話がきた。16名それぞれの課題を指摘し分析してくれた。あまりにも図星で驚いてしまった(どんなアルバイトをしてるかも当ててしまうほど)。私もニブも体も心もズタズタボロボロ罪深く体弱いという様々な秘密で繋がっている。恋人でも家族でもなく大親友であり、時折なにも話さなくてもわかってしまう。会話と会話の間、言葉が聞こえてきてしまう時がある。帰国の日、早朝ニブを駅のホームで見送った。私達は何一つ言葉が出てこなかった。微笑むのが精一杯だった。

翌日再び病院の帰り道。大親友の母親に「唯一の大親友を失ったら、私、どうしたらいいのかわからないわ」と言うと「大親友なんて失ったって平気よ。またできるから」と言った。

 

 

 

いきのねと花祭

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「いきのね」改訂版の再演まであと2週間。リサーチを始めた2015年から足掛け4年とはいえ上演したのはこれまでたったの一回ぽっきりの「いきのね」。先日稽古を見に来たメルボルンダンスハウスのディレクターのアンジェラが「一体どれだけの時間を費やしたのか?上演回数が1回しかない!?」と、空白と密度に驚いていた。花祭の「月地区」「古戸地区」東京花祭など足を運び、舞いを習い、花祭のない時期にも奥三河に足を運んだ。なぜ花祭なのか、なぜいきのねなのか、なぜこのクリエイションが生まれたのか、という理由は一つじゃない。クリエイションの種はいつも一つじゃない。

郷土芸能を私が調べ始め日本全国の踊りを見て回ったのはもう二十年以上前のこと。野宿や役所の人の家に泊めてもらってあちこちの踊りを見た。踊りなどの芸能と生活が結びついていることを昔から知っていたのは、母の家が山の麓の米農家だったからかもしれない。農家の暮らしの中には読書する時間などないが、全ジャンルの本を読むのと同じくらいの学びがある。芸術哲学文学数学全てが苦労とともにある。踊りもある。

花祭は人々の願かけ祭り。とはいえ願かけだけではない精神世界が宿っていることを、花祭を訪れた瞬間に感じることができる。公民館の土間空間は「舞庭」(まいど)と呼ばれ、センターにかまど。周りにある五本の柱から五色の神道が、かまどの上の湯蓋につながっている。湯気で揺れる五色。これは陰陽道からきた陰陽五行説によるもの。五色は五方向を示している。東は青、西に白、南に赤、北に黒(紫や紺)、中央は黄色。相撲にも同じ配置を見ることができるが、相撲では中央の黄色を土俵の荒木田土の色が受け持っている。

昔私たちの祖先は太陽の力の弱い冬は精霊が地面に沈んでしまうと考えていた。だから鬼や舞手は地面を踏んで踏んで精霊の復活を祈った。これもまた陰陽道の歩行呪術の一つ。私たちカンパニーの踊りも、ひたすら地面を踏むことで踊りを立ち上げている。

冬は山や森がじっとエネルギーを内に込める。木々も地面も精霊が沈みこむというよりもむしろたくさん宿る。春という生命爆発前の準備。冬の森にはエネルギーがぎっしりと溜まっていて、精霊がどこにいるかがすぐわかる。願かけ祭りをやるにふさわしい。精霊に語りかける祭りは徐々に私たちの清らかな生活を願う祭りへと変化し、人々の様々な願いを叶えよう、家内安全、村内安全を願う祭りへと変わっていった。精霊が宿るのは今や地面だけではない。人と人の間、仕事や社会というものが私たちの「地面」となり、精霊が宿る場ともいえる。しかし欲にまみれた忙しい私たちの生活の中には精霊が宿る時間も空間もない。精霊が宿らないということはどういうことなのか、踊り手にはわかる。わからない人は踊っていないと。身につけているもの、身の回りにあるもの、人、着ているもの、精霊が宿るものとはなにか。踊り手の身体の間に、踊り手と踊り手の間に、踊り手と観客の間に、「花祭」と私たちの間に、精霊が宿りますように、と、容れ物として「いきのね」がある。

改訂版の稽古がすすむにつれ、音楽も衣装もアップデートが凄まじい。ダンサーたちの取り組みもすべて。「いや、そこまでこだわったら大変だから、、」と思うと同時に、こだわらなきゃ罪と思ったりもする。いよいよ大詰めのお祭り。